頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ

Wp01b 最近、「リミット-刑事の現場2」というドラマを観ました。それは、市民を悪から守るという義勇心に燃えている若手刑事と、自分の恋人を殺した犯人を殺そうという目的で刑事をしている年配の刑事とが組となって、色々な事件にあたっていくというドラマで、そのストーリーが進むにつれて、この若手刑事の義勇心が失われ、ある事件が自分の妻に関わるものとなると、犯人に対する抑えられない憎しみ、怒り、殺意へと変わっていくという人間の心の深い部分を取り扱うものでした。

私はそのドラマを観ながら、もしかしたら、これまで自分が人を殺めたりするような罪を犯さないでいられたのは、ただ自分がその機会に直面していなかったからで、もし、そのような思いを誘発する出来事や機会に直面していたとするならば、自分も何をしでかすか分からない、いつ、その化けの皮がはがれるか分からないような存在なのではないかと思いました・・・。

マック

今日、礼拝でお話したメッセージです。

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頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ

2009年8月30日

イエスはこの群集を見て、山に登り、座につかれると、弟子達がみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた「心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである。マタイ5章1,2節

私達はこれからしばしの間、イエス・キリストの山上の教えの中にある八つの祝福から「本当に幸いな人とは?」という新しいシリーズをみていきたく願っています。その理由は、誰しもが幸いな人間になりたいと願っているということと、にもかかわず、なぜ誰しもが幸いな人間になれないのかという現実があるからです。さらに、もしかしたら私達がこうすれば、こうなれば幸いになれると思っていることが、実は間違っていたのではないかということ、そして、もしそうであるなら、私達はなるべく早く、その軌道修正をした方がいいのではないかということ、それらのことを思いつつ、このシリーズを見ていきたく願っています。

皆さんにとって「幸い」とは何でしょうか。フランスのモラリスト、ラ・ブリュイエールは「我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに、だ」と言いました。同じくフランスの文学者ラ・ロシュフーコーは「我々は、幸福になるためによりも、幸福だと人に思わせるために四苦八苦しているのである」と言いました。もう、この辺りで多くの私達の幸いというものが、相当数、ふるいにかけられてしまうのではないかと思います。この二人は今から400年も昔を生きた人達ですが、私達は今も変わらず、彼らの言葉の辺りをうろうろしているのかもしれません。

それに対して、私達がこれからみていきますイエス様が語られる幸いというものは、おそらく私達がこれまで聞いたことがないことですので、私達はこのシリーズを通して、おそらく耳を疑うような言葉を何度も聞くことがあるかとも思いますが、あらかじめご了承ください。

まずその最初ですから、これからお話しますイエス様が語られた言葉はどのような背景をもっているのかということをお話していきたく願っております。このところでイエス様は群集を見て、山に登ったとあります。そして、そこに座わると弟子達が回りに集まってきました。そこでイエス様は教えを話し始められたのです。当時、一つ所に教師が座り、その回りに弟子達が座るというのは、律法の教師が人々に律法を教える時の一つの型であったと言います。そのような意味でイエスの弟子達は、その所でイエス様から何かを教わろうとしていたのです。

そもそもイエス様はなぜわざわざ山に登ったのでしょうか。なぜその場所についてマタイはあえてそれが山だったと記したのでしょうか。「律法」と「山」、ここで私達はこの二つから一つのことへと思いが向けられていきます。それはモーセという人がシナイ山で、神様から律法を与えられたというあの出エジプト記に書かれている出来事です。それゆえ、このことを実行したイエス様の心にも、それを書き記したマタイの思いの中にもその出来事があったのだと思います。

モーセがシナイ山で受け取った律法で私達がまず頭に浮かぶのは「十戒」です。

「偶像を拝むなかれ、殺すなかれ、盗むなかれ」という人間が守るべき十の戒めが書かれた律法です。今日もその律法は改正される必要もなく有効でありますが、イエス様はその先のことをここでお話しになられているのです。

すなわちこの少し先の5章17節には、イエス様はこのことをしっかりと踏まえて言われました「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」これはモーセに与えられた、すなわち人間に与えられた神の戒めに対して、それが無効となるということはなく、私が与える新しい教えによって始めて、その律法は成就する、完成するということです。

すなわちこういうことです。モーセの律法は「人間がすべきではないこと」を明らかにするものです。また、このモーセの律法は「人はそのすべきではないということを守ることができない」ということを知らせるものでもあります。なぜなら人は皆、形こそ違えど、殺すな、盗むな、偽るなということを日々、なしているからです。人は誰かを殺傷せずとも、相手の心を殺すことができます。実際に窃盗を犯していなくても盗みの形は、何かをポケットに入れるということだけではありません。形すらないものですが、私達は誰かの時間を盗むことがないでしょうか。今までの生涯、一度も嘘偽りを言ったことのない人というのはいないでしょう。100度の嘘も3度の嘘も変わりはありません。モーセの律法は私達に、そのように律法の前に私達は全く無力だということを明らかにしています。そんな私達が今、今日の御言葉に向き合おうとしているのです。

「心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである」

日本で長い間、鎌倉雪ノ下教会において牧師としてはたらかれた加藤常昭先生がその著書の中で九州の一人の牧師であられた佐藤敏男という先生の「生と死とーニューギニアの一兵卒」という手記について書かれています。

佐藤牧師はニューギニア戦線で戦い、そこで敗戦を迎えたというのです。そこは、かつて15万人もの日本兵が派遣されたこの南の島で、実際に帰国することができた人の数が4万人だったと言われていますから、実に11万人もの人の命が奪われた激戦の地であり、そこから命を失わずに先生は日本の地を再び踏んだのです。その戦いがどんなに熾烈なものであったかということを私達は思います。

そして、その手記の中で「軍隊に入って、私が一番最初に痛烈に感じたことは、日本人という国民が、自分がそれまで考えていたよりも、ひどく劣悪であるという一事であった」と書いているというのです。そして、実際にニューギニアに送られてみると、その思いはますます強くなったというのです。佐藤牧師は戦線に送られる前に既にクリスチャンとなっていたといいますが、そのような信仰に関係なく、事実、自分もそのような劣悪な日本人の内の一人なのだということを認めざるをえなかったというのです。そして正直な告白として、良い人間が早く死んでいったと、佐藤牧師ははっきりと書いているというのです。そうなると、その状況の下で生きながらえている自分とは何かということが問われる毎日だったというのです。そして、その苦しみに耐えることこそが、戦争の苦しみだったのだと佐藤先生はいうのです。

私達は今、戦線に立ってはいません。私達の家の目の前を戦車がはしったり、歩兵が機関銃をもって歩いていたり、手榴弾が投げられることはありません。しかし、加藤先生は、未だ、私達はまるで戦争を続けているような経験を日々していると書いています。すなわち、私達の憎しみ、怒り、そのような感情はニューギニアの密林のみならず、今日の私達のすぐ身近なところに、否、私達と共に今も歴然とした事実として存在しているというのです。

Limit」というドラマがありました。それは、市民を悪から守るという義勇心に燃えている若手刑事と、自分の恋人を殺した犯人を殺そうという目的で刑事をしている年配の刑事とが組となって、色々な事件にあたっていくというドラマで、そのストーリーが進むにつれて、この若手刑事の義勇心が失われ、事、ある事件が自分の妻に関わるものとなると、犯人に対する抑えられない憎しみ、怒り、殺意へと変わっていくというとても深いドラマなのです。

私はそのドラマから、また佐藤牧師の手記から大切なメッセージを受け取りました。それは、私達がもし人を実際に殺めたりするような罪を犯さないでいることができるのは、ただ私達がその機会に直面していないからで、もし、そのような思いを誘発する出来事や機会に直面するとするならば、私達は何をしでかすか分からない、まさしく日本人兵士が、そして厳密に言いますがそれが日本人であれ、いかなる国の人間であれ、実際にそのニューギニアの戦場にいたとしたらな、私達は何をしかすか分からない、いつ、その化けの皮がはがれるか分からないような存在なのです。

私達は自分のことは何でも分かっていると思いながら、てんで自分のことも分からない者です。すなわちイエス様が譬話として言われたように「自分の目の前にある梁(巨大な大黒柱)がありながら、あなたの目にある塵が気になってしょうがないから、それを俺に取り退かせろ」と叫んでいるような存在なのです。そうです、私達は自分のつくった物差しで人を厳しく計り、その物差しで自分を甘く計っている、そのことにも気がつかないものなのです。

それどころか、そのようなことが指摘でもされるのなら、そんな自分を正当化するために、私達はそれを、ねじ伏せることができるような力を得ようと躍起になったり、それらから目をそむけるべくあらゆる努力をしたりして、自分をごまかそうとします。そもそも今日の世の中は、自分に非があっても、それを認めずに相手の弱みにつけこんで自己正当化するような潮流にありますから、私達もその流れにどっぷりつかっています。そして、そのように生きている限り、たとえ自分の願っていることが叶ったとしても、自分が欲していたものを手に入れたとしても、自分の敵を打ち負かしたとしても、私達は幸いになれるはずなどないのです。それどころか、私達の心には空しさがあり、また平安が訪れるということは決してないのです。

しかし、もし、私達がそんな自分の本当の姿に気がつくなら・・・。自分はそこそこ真っ当な人間だと思っていたにもかかわらず、それを聖書的視点で言いますならば、その真っ当と思われた自分の影に神様が光を照らしてくださり、その真っ当さがなんと怪しいものであるか、なんと自己中心であるかということに気がつかせてくださることであり、そんな自分の姿に愕然とするならば、その人は幸いだとイエス・キリストはここで言われているのです(皆さん、こんな話、聞いたことありますか?)。

岩手県で医師をしておられる山浦玄嗣氏がその地元の気仙郡の方言に基づいて「ケセン語訳新約聖書」というものを作りました。氏は聖書の原語からあたり、忠実にその言葉気仙の方言に変えたのですが、その聖書の中で、今日開かれているマタイ5章1,2節はこのように訳されているのです。「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸(すあわせ)せだ」(標準語訳:頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ)

皆さん、心の貧しい者というのは、自分の本性を知り、何と自分は頼りなく、望みなく、心細い存在なのかと思っている人のことなのです。これらの人たちは(聖書はこれらの人たちは実際のところ、本来、全ての人間のことなのだといっているのですが、多くの私達はそのことに全く気がついていないどころか、気がつく気配もないのですが)、自分の本性に対して、完全に頼る者も、希望も失っているがゆえに、全ての信頼と希望を神にかけることができる人達だから、そのような人達は幸いだというのです。

さらにこの言葉には日本語では分からないニュアンスがありまして、この言葉は原文においては、信心深い者が感慨深く語っているような言葉ではなく、そもそも感嘆文になっているのです。すなわち「ああ、幸いなるかな、心の貧しき者!」ということ、もっと砕けていいますと、「いや~本当に、あなたたちは良かったよ、幸せだよ、なぜならあなたたちは心が貧しいから!」と言うような言葉だというのです。「あなた、良くぞまぁ~、この幸いの境地に達しましたね」ということなのです。

そして、私達がよく使う英語の「ハッピネス」という言葉の語源が「ハップ」という「偶然」を意味する言葉であり、人生の偶然とか変化に左右されるものであるということなのに対して、ここに記されている「マカリオス」という「幸い」を意味する言葉は、内側から湧き上がる喜び、人生の偶然の出来事や変化によって影響されることのない喜びをあらわすものなのです。それはまさしくイエス様がヨハネ16章22節で「その喜びをあなたがたから取り去るものはいない」と言っている、何人もその人から取り去ることができない喜びのことなのです。

明らかにこのイエス様の言葉を聞いていた弟子達はおそらく、その言葉を理解できなかったことでしょう。聖書の中には度々、イエスの教えを見聞きしていた人達の反応として彼らは「驚き怪しんだ」と記していますが、この言葉を聞いた弟子達にもそれと近い思いがわいたに違いありません。「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸(すあわせ)せだ」と言われて「うんだぁ~、うんだぁ~」なんて、思う人は当時の世界、その地球上に一人もいなかったのです。人類はそんなこと考えたこともない、否、人間はそのようなことを考えられるレベルに生きていないのです。人間の発想の中にこのような言葉は存在しないのです。なぜなら、この言葉は人を超えた神という存在からしか生まれようもない言葉だからです。しかし、その前代未聞の言葉が神の子なるキリストの口から発せられたのです。

キリストの弟子、ヨハネはエーゲ海に浮かぶパトモスという島に幽閉されながら、幻の内に神のみ声を聞きました。それはこんなものでありました(黙示録3章17節-22節)

17 あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。 21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

この黙示録の言葉こそ、この「貧しき者は幸いなり。天国は彼らのものなり」という言葉を解き明かしている言葉です。

私達は思う。私はいっぱし、そこそこ善人だし、貧しくもない、教育も受けている、とかく不自由でもない、しかし、聖書はいう、そういうあなたは自分がみじめな人間、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない、裸な者だと気がついていない。

あなたが私の御国、すなわち天国を受けるために、あなたはそのことに気がつきなさい。そのために心の目を開きなさい。神の目から見れば「あなたは頼りなく、望みなく、心細い、貧しい人なのだ」それに、気がつきなさい。そして、それに気がついた時、あなたはあなたの心のドアをたたく音を聞くのだ。いや、もっと言おう、それに気がつかない限り、あなたは私がたたく音を聞くことはできない。

みよ、私はその戸の外にたって、たたいている。私を心にいれなさい。あなたが開ける、その扉の先には神の国を生きるお方が立っているのであり、そのお方はその神の国をあなたにも与えようとしているのだ。そのお方はあなたも共に勝利の座につかせよう、必ずつかせようとおっしゃっているのだ。

だから、このみ言葉は言うのです。「ああ、幸いなるかな、心の貧しき者!」と!「いや~本当に、あなたたちは良かったよ、幸せだよ、なぜならあなたは、自分の心の貧しさを知っているのだから!」と!「あなた、良くぞまぁ~、この幸いの境地に達しましたね」と!

キルケゴールという人は、こんな譬話を書き残しています。

ある晩、盗人がデパートに押し入った。この盗人は何も盗みはしなかったが、商品の値札を全部、付け替えて消えた。翌朝、店員がその店で発見したのは、ダイヤのネックレスに一ドルの値札がつけられ、安い模造宝石のイヤリングに数千ドルの値札がつけられているといった奇妙な光景だった。買い物客が喜んだのはいうまでもない。

この譬がお分かりになるでしょうか。イエス・キリストが山上で話された言葉は私達が当たり前と思っている価値観を、全てその根底からひっくり返してしまったのです。聖書を読む時に、私達はあることに気がつくのです。聖書は大逆転を記している書なのです。すなわち強い、自分は富んでいると思っている者達が、実は最も弱く、貧しく、自分の弱さを知り、自分は貧しいと思っている者達が、実は最も強く、最も富んでいるのです。

この世で50000ドルの値札のついていたものが、天国においては売り物にもならないものであり、この世で誰も見向きもしなかったことに、値がつかないほどの価値を有するのが天国なのです。今日、「自分の貧しさ」ということに対して、世は値札などつけません。そんなことに価値をみいだしません。しかし、天国においてはそのことは値札がつけられないような高価なものなのです。なぜなら、そこからイエス・キリストとの出会いが始まるからです。

皆さん、私達はよく神は分からない、理解できないといいます。しかし、それはもしかしたら、自分のことがよく分からない、自分の本当の姿を知らないということなのかもしれません。自分の本質が分かる時に、いいえ、もっといいましょう、自分の本当の本性が分かる時に、自分の貧しさが分かる時に、私達は神様が分かるのです。

先にお話したように、今日、お話しましたことは「耳を疑いたくなる幸い」かと思います。しかし、このところから私達の本当の幸いは始まるのです。

お祈りしましょう。

本日のお持ち帰り

頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ

あなたにとって「幸い」とは何ですか。以下の先人の言葉をどう思いますか。「我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに、だ」。「我々は、幸福になるためによりも、幸福だと人に思わせるために四苦八苦しているのである」

「心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである」という言葉を読む時にあなたはどんな印象をもちますか。この言葉を「頼りなぐ、望みなぐ、心細いは幸いだ」と言い換えると何かその意味が分かってきますか?

私達がもし人を実際に殺めたりするような罪を犯さないでいることができるのは、ただ私達がその機会に直面していないからで、もし、そのような思いを誘発する出来事や機会に直面するとするならば、私達は何をしでかすか分からない、いつその化けの皮がはがれるか分からないような存在だという言葉にあなたは抵抗を感じますか。同意しますか。

あなたは自分のことがよく分かりますか。自分のことがよく分からないのに、他者のことが分かると思いますか?私達は自己正当化するために、どれだけのエネルギーを日々、使っているのでしょうか。

「心の貧しい者」とは自分の本性を知り、何と自分は頼りなく、望みなく、心細い存在なのかと思っている人のことなのです。自分の本性に対して、完全に頼ることができず、希望を失っているがゆえに、全ての信頼と希望を神にかけることができる人達だから、そのような人達は幸いだというのです。

ヨハネの黙示録3章17節-22節を読んでみましょう。ここを読む時に私達が自分の霊的な貧しさを知る時に、どのようなことが起きると書いてありますか。そのこと以上に価値あることが私達の人生にありますか。

あなたはなぜ「心の貧しい者」が幸いなのか分かりましたか?この世の中では考えられない逆転の真理をあなたはどう思いますか。


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