ノミを使った有名な実験があります。
まず、コップの中にノミを入れます。ノミは生きものの中でその身長に対して最も高くジャンプすることができる生き物だそうで、そのコップの中でもそこから出ようと思いきりはねるそうです。しかし、そのコップに一枚の紙を置き、ふさいでしまいますと、彼らはしばらくは何度もその紙にぶつかりながらはねますが、その内にジャンプしなくなるそうです。そして、後に紙を取り除いて、飛べばそのコップから出られる環境にしても彼らはもはや飛び跳ねなくなるというのです。

過去の落胆が、その次の行動を決めてしまうことがあります。すなわち私達の落胆が明日の可能性を摘んでしまうのです。しかし、私達の落胆は明日につながるというのが聖書のメッセージです。いいえ、それどころか落胆によって、私達はとてつもない飛躍ができるのです。
マック
今日、礼拝でお話したメッセージです。
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落胆は明日につながる!
2008年7月13日
コリント第一の手紙2章1節―5節
1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。3わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。4そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。5それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった(1コリント2章1節‐5節)
「もう、打ちのめされてしまいました」という言葉があります。それは文字通り、何かの出来事によって、打たれてしまっていますということで、そこには失意・落胆の様をうかがい知れます。この「打たれ」が強いと私達はしばらくは立ち上がることができませんし、いいえ、そのままずっと立ち上がれないということもあるのです。
今日、読んで頂きましたコリント第一の手紙はパウロという人がコリントにある教会の人々に宛てて書いたものです。この箇所を見ます時に、私達は強気なパウロには珍しく弱気になっている、何かに打ちのめされてしまったような彼の姿というものを発見します。すなわち彼はここでかつて自分がコリントの町を訪ねた時のことを回想しているのですが、その時に私は「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」と告白しているのです。
パウロはなぜ、そのような恐れと弱さ、そしてひどい不安に襲われていたのでしょうか。その原因となったことが、このコリントに来る直前に訪れた町、アテネでの出来事のなかにあったようです。パウロに何が起きたのか、使徒行伝17章を見てみましょう(22-33)。
22(アテネにて)パウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。23 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。24この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。25また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、26また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。27こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。28われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。29このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。
30神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。31 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。32死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。33こうして、パウロは彼らの中から出て行った。
当時の世界を代表する学問の町。大統領選においてカリフォルニアやニューヨークというような巨大な週の票を獲得することに大きな意味があるように、パウロもこのアテネでの伝道の発展というものを期待していたに違いありません。しかし、結論から言いますと、それは失敗に終わりました。彼らはパウロの話を聞いてあざ笑って彼の話しに全く関心を示さなかったというのです。
アテネと言えば学問の町、世界中の知者達が集っては議論をする町、パウロ自身も飛びぬけて知的な人間ですから、知的な人間達に向かい、彼は技巧をこらして、考え抜いて、とても整えられた説教をしたことが今、読みました使徒行伝17章を見る時にうかがい知れます。アテネの人なら誰でも知っているギリシアの七賢人の一人、伝説の詩人エピメニデスの言葉までも引用しながら、彼は説教を語ったのです。そこに知者に語るパウロの精一杯の工夫と知恵があったことをうかがい知れます。しかし、結論から言いますと、彼らはパウロの説教と聞いてあざ笑ったと聖書は書いています。パウロは期待も大きかっただけに落胆したに違いありません。
落胆は私達が期待していたことが成らない時に起こります。パウロの期待はなりませんでした。実際にこの後にアテネに教会ができたという記録はありません。そして、その落胆が次のはたらきに影響を与えることがあるのです。俗に私達はそれを「引きずる」と言います。
このメッセージを作っている現在、私達の街の野球チームは七連敗をしています。スポーツには流れというものがあるそうで、一度、このような流れに入ってしまうと、どうしても昨日の、三日前の「あの試合に勝てるはずだったのに!」という落胆が、これから向き合う試合にまで影響を及ぼすことがあるのです。
特に落胆の後に向き合わなければならない課題が困難なものでありますなら、なおさらです。そして、そのことがパウロにも起きたのです。すなわち彼がアテネを去ってから次に立ち寄った町はコリントという街でした。皆さんもご存知のように、当時のコリントはどんな町だったかというと、国際商業都市で他民族が住む町であり、約60万人の人口のうち40万人は奴隷という町で、東西のあらゆる宗教が混在していました。アクロ・コリンサスという山の頂には女神アフロディアが祭られており、その回りには千人もの巫女がおり、彼女らは実際には神殿売春婦だったのです。「コリントの人だ」というのは「不品行な人」「コリントのように振舞う」というのは「不品行をする」という意味にもとられていた。
失意・落胆の後にはそのような町での伝道が待ち受けていたのです。ある意味、知恵をもって知者に語るという自分が一番、得意とする分野に期待したものの、いい結果を残せなかったパウロにとって、このコリントの町はとても困難な伝道地と思えたに違いありません。
皆さん、そういうことないですか。あのことができなかった、計画を建て、自信もあってやったけど、うまくいかなかった。しかし、今度は自分が最も苦手とする状況に立つ、あそこでダメだった自分がどうしてここで何かを成し遂げる事なでできようかというようなことはありませんか。
一つのことをお話しましょう。それは落胆には必ず成長が伴うということです。
落胆には必ず成長が伴う
いったい世界中で、このような失意・落胆でどれだけの可能性の芽が摘まれてしまっていることでしょうか。たった一度の失敗によって、どれだけの子供や若者達の可能性が失われていることでしょうか。一体、世界でどれだけの大人達がかつて思い描いた夢というものを今日、捨てているのでしょうか。
ノミを使った有名な実験があります。コップの中にノミを入れる。ノミは生きものの中でその身長に対して最も高くジャンプすることができる生き物だそうですが、そのコップの中でもそこから出ようと思い切りはねるそうです。しかし、そのコップに一枚の紙を置き、ふさいでしまいますと彼らは最初は何度もその紙にぶつかりながらはねますが、その内にジャンプしなくなるそうです。そして、その後に紙を取り除いて、飛べばそのコップから出られる環境にしても彼らはもはや飛び跳ねなくなるというのです。過去の落胆が、その次の行動を決めてしまうのです。
ノミと子供は比較できませんが、子供が目を輝かせて自分が描いた絵や、工作を親の所にもってきます。確かに大人の目から見れば、それが何なのかも分からない、それゆえ「何よ、それは?」とか「もっと上手に書きなさい」とばかり言っているとしたら、彼らはもはや次の可能性へのチャレンジを止めてしまうに違いありません。
世の中には、人生に幻滅感を抱いている人が多くいます。また「落胆」することが習慣になっているような人も見かけます。そして、そうなってしまうとその流れに生きるようになり、その流れを断ち切ることは至難の業となります。
パウロはどうだったでしょうか。もし、パウロがあのアテネの経験を引きずってしまったとしたら、後の彼の宣教のはたらきはなされなかったかもしれません。そして、もしこのところでパウロの気持ちがくじかれたままで、その世界宣教がストップしてしまったのなら、今日、このサンディエゴ教会はなかったかもしれません。
しかし、聖書のメッセージはその彼の落胆から生まれた、驚くべきパウロの成長を記しています。
その彼がアテネを去り、コリントに到着した時の心境というものを(今日、司会者に読んでいただきましたが)彼はこう1コリント2章1節‐5節に書いています。
1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。3わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。4そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。5それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
何度も申し上げますように、彼のような大胆な人間も弱さを感じ、恐れ、ひどく不安だったのです。しかし、パウロは一つのことに目が開かれていきました。すなわち彼はこの言葉の最後に、これらの失望・落胆からくる恐れと不安を経験することによって一つのことを確信したというのです。すなわち、彼は「わたしの言葉もわたしの宣教も巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」と言うのです。
彼は何を言っているのか。彼はこの落胆によって一つのことに気がついた。それは、自分がしている宣教とは「自分の巧みな知恵の言葉」、言い方を変えれば「自分の力」によるのではなく「神の力」によるものなのだということに気がついたのです。きっと聖霊がそのことにパウロの目を開かせてくださったに違いありません。そして、この確信はこの後の彼の人生最期までパウロという人間の土台となりました。そして、パウロが後に驚くべき宣教を繰り広げていった原因は全て、このことへの気づきにあったと言っても過言ではないのです。それゆえに、彼は恐れ、不安をもってやってきたこのコリントの町で自分自身も想像もしていなかったような大きな伝道の成果を残すことができ、実に一見、困難に見えるその町に一年半も滞在することができたのです。
もう一度申し上げますが、このコリントでのパウロの働きの成功の秘訣は、自分の働きを、ただ主イエスに依り頼んで果たしていったことにありました。そのような変えられた、成長したパウロの姿というものが、この出来事以降、あちこちに彼の言葉として私達は見ることができるのです。
彼は1コリント15章10節で書いています「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなくて、わたしと共にある神の恵みなのです」。私は自分の出来る限りを尽くして働きました。しかし、実際にその働きをしてくださったのは自分の力ではなくて、神の恵みなのですというのです。
コリント第二の手紙4章1節には「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と書いています。かつては落胆していた彼ですが、もう落胆しないというのです。なぜなら、彼の務めは全て自分の肩にのしかかってくるものではなくて、それは神から私に委ねられているものであり、神がその務めに自ら関わっていてくださるからだというのです。
そしてさらに続いてこう書いています「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(コリント第二の手紙4章8節、9節)。一言で言いますならば、自分の身に何が起きても私は大丈夫だと言っているのです。あのアテネでの失敗に失意落胆していたパウロの姿はどこに行ってしまったのでしょうか。あの弱々しい彼の心に一本の堅固な筋が通ったようです。そして、それはパウロが神に全てを委ねているところからくる強さなのです。
そして、その後に再び、彼は落胆しませんとこう書いています(コリント第二の手紙4章16節‐18節)。
「だから私達は落胆しない。たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日毎に新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い艱難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりに私達に得させるからである。私達は見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである」
目に見えるものには私達を落胆させるものがたくさんあります。パウロもそうでした。アテネにおいては確かに彼の目の前であざ笑う人達を彼は見たでしょうし、その場を去っていく人を見たことでしょう、そしてコリントの町では頭を抱えたくなるような町の様子というものが目に飛び込んできたことでしょう。
しかし、パウロは言うのです。私はそれらだけに目を留めるものではないのだ。私には確かに艱難がある。しかし、その艱難は栄光となり、その栄光があふれんばかりに自分に注がれることも自分は知っているのだ。そうだ、私は目に見える艱難によって落胆していたものだけれど、今は違うのだ。父なる神に信頼を寄せ、見えないものに目を注いでいるのだ。
そうです、彼の落胆は後のパウロがさらにさらに用いられるための大切なチャンスとなったのです。いくら彼が優秀な人間であっても、彼自身の力でできることはたかが知れています。しかし、その彼を用いて神様が働いてくださるなら、その神の力に自らを委ねたゆえに、この後のさらなる彼の働きは驚くべきものとなっていったのです。
皆さん、このパウロの生き方を私達に当てはめるなら、私達が失意・落胆している時こそ、私達がさらに成長するための大きなチャンスに立っているということなのです。そして、それは私達が神の力に委ねるということなのです。
落胆が使命を明確にする。
1兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。2なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。3わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。4そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。5それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった(1コリント2章1節‐5節)
挫折は、さらにパウロに、自分の使命を再び明確にさせることにもなりました。パウロは自分が語り告げるべきことは、人々が喜んで聞きたがるような「この世の知恵」ではなくて「十字架につけられたキリスト」(1コリント1章23 節、2章2節)に他ならないことを、理解しました。そしてこの時以降のパウロは、臆することなく、ただ「十字架につけられたキリスト」のみを大胆に語り伝える者とされていきます。
Ⅱコリ4章5節でパウロはこのことを明確に記しています「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自信は、ただイエスのために働くあなたがたの僕に過ぎない」。
私たちが語るべきは十字架につかれたキリスト、私たちのために死んで下さったキリストのみなのだ。キリストは十字架を負い、私達のためにその苦しみを身に負ってくださった。だから私たちも自分の十字架を負ってこのイエスだけを伝えていくのだ。
今までお話してきましたように、パウロにとってコリントの町は決して生半可な町ではありませんでした。そこには多くの問題や危険がありました。それこそ毎日が苦悩と徒労の連続だったと思います。しかし、先ほどお話しましたように、それでもパウロは「私は落胆しない」と断言しました。決して負け惜しみではなく、パウロは「見えるもの」にではなく「見えないもの」に目をそそいでいたからです。「見えないもの」の彼方には「永遠のキリスト」がおられるということを知っていたからです。そして、自分の人生はこのキリストを伝えることのみに向けられるのだという使命の確信が彼には与えられたのです。そして、その確信は彼のアテネでの落胆が一つの原因となっていることは明らかなのです。彼は落胆によって彼は自分が何のために生きていけばいいのかということを明確にすることができたのです。
もし、皆さんの中に失意・落胆の中にいる方がいましたら、皆さんは今、とても大切な時にいるのです。すなわち、自分の力により頼むことから、神により頼んで歩む人生へと導かれる分岐点に立っているということです。そして、それと同時に自分の人生をどのように生きていけばいいのか、その使命を知る時でもあるのです。
私は17,8年前にこれからの人生をどう歩んでいけばいいのか悩んでいました。この人生を何に捧げたらいいのかと考えました。皆さん、ご存知のようにそのような時期に色々な所を放浪しました。高知へ旅に出たり、署名をいただきながら神奈川県から自転車で広島への平和運動をしてみたり。そのような中、私が一つやりたいことに青年海外協力隊として働いてみたいというものがありました。
いくつもある派遣地の中から私は南太平洋に浮かぶヤップ島という島に行きたいと願うようになりました。そして、もう一人で諸々の準備をして、申し込み書を提出したのです。その土地への必要技能は英語とありましたので、留学後のことでしたから、そうとうの自信をもっていました。
しかし、結果からいいますと見事に一次試験で落ちたのです。受かると思っていたものが落ちるというのは(そうとう傲慢な者でした)、その後に落胆を伴うものでして、しばらくは落ち込んでいました。でも、あとになって気がつかされたのですが、その時というのは私自身が「俺が!」「自分が!」と思っていた時であり、今振り返れば何でもかんでも自分の力だけでしようとしていた時でもあったのです。
そんな神様は私に大切なことを教えてくださったのです。「俺が!俺こそが!」ということが、通らないことがある。そして、それに縛られている間、お前はお前が望み描いていることすら成し遂げることができないよ。そうではなくて、私に委ねてごらん。お前の願いが私のみ心にかなうものであるなら、私はいつも私がいつもそう望んでいるように、あなたに必要は力を与えるから」。
そして、今にいたっているのです。ヤップ島に行く事はなくなりましたが、今、神様に感謝をしていることは(当時は辛いものでしたが)、落胆を通してこの素晴らしいお方を伝えるという最高の使命をこのお方は私のような者に託してくださったということなのです。
皆さん、苦々しく思える落胆が、私達を成長させます。まさしく、そのような意味においてはピンチはチャンスです。しかも、それは大きなチャンスです。そのことによって、私達は内なる力により頼むことなく、栄光に満ちた神の無尽蔵の力により頼むようになるからです。そして、そのようなことに気がつかされた時に、神様は私達だけにしかできないユニークな使命を与えてくださるのです。私達の落胆こそが神のさらなる祝福の扉を開くことができる鍵なのです。
お祈りしましょう。
神の恵みが会って今日の私があるのです。まさしく,生かされています。お帰りなさい.有難うございます。ウェストコヴィナ一同よりみな、在主
minah kimさん
無事、帰りました。お祈りをありがとうございました。ウエストコビナの皆さんによろしくお伝えください。
モウシヨノナカ、カイゴゴクロウサマデシタ。 デンワメツセイジ、アリガトウゴザイマシタ。ネツトオミルト、スケシユルガイツハイデ、タイヘンデスネ、オカラダ、タイセツニ、オイノリシテイjマス。
IIDAさん
メールをありがとうございました。この度はゆっくりとご連絡もできずに帰りの空港からの電話となりました。母も一つ所に落ち着くことができて感謝しています。いつもありがとうございます。
今の私に必要なメッセージ、神様の導きです。ありがとうございました♪「私が何とかしなくては」という力みを神様に委ねたいと思います。先生のお働きを覚えてお祈りしています♪
Azusaさん
メッセージを読んでくださってありがとうございます。「委ねた者勝ち」ということでしょうかね(笑)。