「フォ-レスト・ガンプ」という映画がありました。1960年代を背景にトム・ハンクス扮する主人公ガンプが思い描いてもいなかったことに巻き込まれていくという映画です。
その中にダンという軍曹がでてきます。彼は激しい戦闘が続くベトナム最前線で部隊を指揮していたのですが、ある日、爆撃を受けて両足を切断して帰国します。しかし、帰国した退役軍人に対する社会の反応は冷たく、彼は車椅子の上で荒んだ生活を過ごすようになります。 映画はそのダン軍曹の心の苦しみと怒り、虚しさというものをところどころに描写します。またそのような中でも必死に本当の安らぎというものを求めている姿をも映し出します。
そんなある時、ガンプと二人、船にのって海老漁に出たダン軍曹は大きな嵐に遭います。そこで嵐のただ中、マストの上で心の中にあるこれまでの思いを神にぶつけ叫びます・・・。 嵐が過ぎ去った静かな翌朝、そこには表情が穏やかになったダン軍曹の姿があります。彼はガンプにこれまでの礼を言うと、船から川に飛び込み仰向けにゆっくりと泳ぎだすのです。その時、ガンプのアラバマ訛りのこんな言葉がナレーションとして語られます。
I THINK HE MADE HIS PEACE WITH GOD.
私には嵐の翌朝のダン軍曹とぺヌエルの体験をした翌朝のヤコブ(今日の礼拝メッセージ↓の中心人物です)が重なるのです。両者とも激しい葛藤と不安の人生から神の胸に抱かれて生きる道を歩き始めた人達なのですから。
闘ったことがありますか?
2009年3月22日
私達が使っている日本語には「たたかう」という漢字が二つあります。一つは「戦う」、そして、もう一つは「闘う」です。この違いが分かりますか?「戦う」は戦争するとか、勝ち負けを争う時に使うもので「敵国と戦う」とか「選挙で戦う」というような時に使います。「闘う」は困難などを克服しよう、見えないものとの精神的な争いをする意味があり「難病と闘う」とか「暑さと闘う」という意味があります。そして、今日この礼拝で見ていきたのはこちらの闘うということなのです。
今日は旧約聖書の創世記からこの後者の闘い挑んだ一人の人、ヤコブについてお話したいと思います。私達の説教シリーズが「あなた物語」とあるように、今日、彼の人生と私達の人生を重ね合わせていきたいと願っております。しばらくヤコブの人生と人となりを見ていきましょう。
ヤコブは双子の弟として誕生しました。彼の母リベカの胎には彼と兄のエサウがいました。まだ彼らがその胎にいた時、その中で二人が激しく押し合った時、母リベカは神に祈りました。それに対して神様はこう答えました「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」(創世記25章23節)。
そして、その後この双子は誕生します。最初に生まれたのは赤くて全身毛ごろものようなエサウ、そしてそのかかとを掴んで出てきたのがヤコブ。この兄のかかとを掴んで生まれてきたというヤコブの姿に、彼の後の人生が預言されているようです。すなわち巧妙に策略をたて、自分が欲するものを最後までくい下がって最終的にそれを手に入れるという彼の後の人生です。
当時はたとえそれが数秒の違いであっても先に生まれた長男に与えられる特権というものがあり、それは他の兄弟達を圧倒するようなものでした。すなわち、この場合、先に生まれてきた兄エサウには家督相続に対して絶対的な優先権があったのです。しかし、兄のかかとを掴んで生まれてきたヤコブはその兄エサウの家督権を自ら奪おうとする人生を歩み始めるのです。それ故に彼はその後、その人生を戦いの中に置くようになるのです。
ある時、兄エサウがお腹をペコペコに空かせて猟から帰ってきました。その兄に対してヤコブは自らが調理していた食事との交換をもって、長男の特権をエサウから奪うのです。
そして、それだけではなく死期が近づき、衰えた父イサクが長男に手を置き祝福しようという時に、すなわちそれは家長である父を通して、神の祝福がエサウの上に注がれるという時に、ヤコブは母と共に自ら扮装してエサウになりすまし、父を騙し、その祝福をも横取りしようとしたのです。目が衰え、それに気がつかない父イサクはヤコブに口づけこう祝福するのです「もろもろの民はあなたに仕え、もろもろの国はあなたに身をかがめる。あなたは兄弟達の主となり、あなたの母の子らは、あなたに身をかがめるであろう」(創世記27章29節)。ヤコブという名前の意味は「奪う者」という意味があります。実に彼は父を騙し、その家督権を奪うのみならず、神の祝福も奪ったのです。
皆さん、ここで一つのことを確認したいのです。ヤコブについて彼が誕生する前に神様は何とその母リベカに言っていましたか「二つの国民があなたの胎内にあり、二つの民があなたの腹から別れて出る。一つの民は他の民よりも強く、兄は弟に仕えるであろう」(創世記25章23節)。
この約束を思う時に一つのことが分かります。すなわち、生まれる前から神様はヤコブを兄よりも祝福しようと言われていたのです。しかし、ヤコブは神様が与えようとしていたものを、自分の力で勝ち取ったのです。この後、彼はこの無益な行動を繰り返します。もともと無償で与えられるものを、彼はもがいて勝ち取っていくのです。
当然、ヤコブが父イサクにした行為は兄エサウを怒らせ、その心に殺意を抱かせました。もはやヤコブが家にとどまることは危険なことになりました。そこで彼はその家を出て行くのです。それまで親元で生活していた彼にとってまさしく孤独を感じた旅となったでしょう。一人、寂しく石を枕に野宿をしているその場で神が語りかけるのです。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」(創世記28章13節‐15節)。
彼はその所でこう言いました「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世記28章16節)。実にそれは彼が個人的に神を体験した最初の出来事となりました。そして、翌朝早く、彼は枕としていた石を立てて、そこにアブラを注ぎながらこんな誓いをしたのです。「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」(創世記28章20節‐22節)。
彼は神から誕生前から受けていた約束と共に、ここではさらにもっと具体的な祝福の約束をいただいたのです。しかし、ヤコブの答えは「神がわたしと共にいまし、わたしの行く道で、わたしを守り、食べるもの、着るものをくださり、再びあの家に帰ることができるなら、私をあなたの神としましょう」というものでした。
彼は明らかに一つの神秘的な宗教体験をしていながら、それらに対して「もし・・・なら、そしてもし・・・なら」とそれでも神を受け入れることはしなかったのです。それゆえ、彼の自力の旅はここで終わることなく、さらに続いていきます。
その後、彼は親類のラバンの家に身を寄せ、そこで心惹かれたラバンの娘、ラケルのために七年働くのですが、自ら酒に酔ってしまったことにより本命ではない姉のレアと結ばれてしまい、さらに七年、ラケルのために働き、第二夫人として彼女が与えられるのです。しかし、その家庭にはヤコブを挟んで二人の妻(姉妹)の争いが絶えることなく、自らもラバンのもと、奴隷のように働かされ、決してその心には平安がありませんでした。
ヤコブの心にはそのような仕打ちをするラバンに対する不信感と怒りというものが湧いてきたことでしょう、これまでやってきたようにずる賢い方法をもって彼はラバンを出し抜こうと自分の家の家畜を少しづつ増やしていきました。しかし、彼の心には平安がありませんでした。先に神様はヤコブに対して「わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守る」と言う約束をなさっていたのです、しかし、彼は自分でがんばったのです。
そんな策略に明け暮れていたヤコブにとって生涯最大の問題が近寄っていました。すなわち、あの自分が騙し、それゆえに自分に殺意を抱いていた兄エサウが400人を率いて自分のもとに向かっているということを彼は聞いたのです。
ここでもまたヤコブは策略を考えます。すなわちエサウをなだめすかしその感情に訴えようとするのです。すなわち自分より先に妻と子供と贈り物を携えエサウの同情を買おうというのです。その贈り物たるや雌やぎ200、雄やぎ20、雌羊200、雄羊20、乳らくだ30、雌牛40、雄牛10、雌ロバ20、雄ロバ10でした。
皆さん、若い狼が群れのリーダーに戦いを臨んで負けた時にどんな行動をするかご存知ですか。その若い狼は自分の喉首をリーダの牙の前に差し出すそうです。この場合、さすがに勝者の戦意も失せ、敗者を殺す代わりに踵を返して、排尿して去っていくというのです。ヤコブは自分の家族を先に進ませることにより、エサウに自分の喉首を差し出したのです。そして、同情を買おうとしたのです。
彼はこれらの準備をし、計画どおり家族とその自分の群れを全て先に送り、彼は一人、一つ所にとどまりました。彼がそれまでの人生にそうしてきたように、自分が考えついた策略の準備は全て終えたのです。しかし、どうでしょうか、彼の心に平安があったでしょうか。いいえ、きっとあの兄の形相が心に浮かんできたに違いありません。そして、そのような時に一つの出来事が起こりました。
その時のことが創世記32章22節‐32節に書かれているのです。
22彼はその夜起きて、ふたりの妻とふたりのつかえめと十一人の子どもとを連れてヤボクの渡しをわたった。 23すなわち彼らを導いて川を渡らせ、また彼の持ち物を渡らせた。24ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。25ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。26その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。27その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。28その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。29ヤコブは尋ねて言った、「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。するとその人は、「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」と言ったが、その所で彼を祝福した。30そこでヤコブはその所の名をペニエルと名づけて言った、「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」。 31こうして彼がペニエルを過ぎる時、日は彼の上にのぼったが、彼はそのもものゆえに歩くのが不自由になっていた。32そのため、イスラエルの子らは今日まで、もものつがいの上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブのもものつがい、すなわち腰の筋にさわったからである。
ここでヤコブは神と闘ったのです。この闘いについて多くの神学者、牧師、文学者が色々な解釈を試みています。しかし、今日はここで、この闘いは神様がヤコブに何かを気づかせるためのものだったと考えてみてください。
神様はヤコブに何を気づかせようとしたのでしょうか。それまでのヤコブはどんな生き方をしていたのでしょうか。彼にはその誕生から、家族構成、そして親戚の中でもまれた日々から生まれた一つの教訓があったようです。それは「誰も信じないことが一番安全だ」ということでした。ですから、今までお話してきましたように彼は全てのことを自分でしようとしてきたのです。長男の特権を奪うこと、妻をめとること、財産を増やすこと、兄ヨセフから逃れる事、まさしくその名、「奪う者」という名のごとくその生涯は決して休まらない戦いの連続だったのです。彼は綿密に計画を立てる人でした。しかし、その生涯に平安はなく、不安と恐れが常に彼と共にありました。
しかし、ここにきて彼は神と闘っているのです。やがて彼のもものつがいが外れました。もものつがいが外れるということは立っていられなくなることです。でもヤコブは闘いをやめませんでした。立っていられないのですから、どうするか、神にしがみついたのです。そうしなければ倒れてしまうからです。
神は言うのです「わたしを去らせなさい。もう夜が明けるから」しかし、ヤコブは動じません。なぜなら、自分でもはや歩けないからです。その時に彼は自分が汗まみれになって寄りかかっているのが神だということに気がつくのです。そして一言、その胸元で言うのです。
「私はあなたを去らせません。わたしを祝福してくださらなければ」。
これこそ神様が40年以上、ヤコブの口から聞くことを待ち続けた言葉でした。ヤコブが自分の無力に気がつき、私の胸に飛び込んでその言葉を言って欲しかった。あの兄や父を欺く事によって自分に益になるような権利がもらえると思ったこと、しかし、そうなるどころか骨肉の兄から恨まれて逃げだした時に、二人の妻に板ばさみになって、おそらくその家庭は安らぎの場どころか、心が裂かれるような場所であったあの時に、ラバンによって過酷で不公平な労働を強いられていた時に、神様はヤコブからこの言葉を聞きたかったに違いありません。
この神との格闘の後、彼は足を引きずり歩き始めました。しかし、その時に朝日が彼を照らしたのです。この朝日はヤコブにとってこれまで何度も見続けてきた朝日とは全く違ったものとなりました。ラバンの元で働いていた時も羊を飼いながら、朝日を何度も眺めたことでしょう。しかし、その時の彼は前の日に家庭内で起きた二人の妻の言い争いに疲れ果てながら、しかし、目の前にあるラバンとの駆け引きに心を向けつつ、朝毎に心を武装して、その日一日を始めたに違いありません。しかし、この日の朝から彼は神に自らを委ねる生涯を歩み始めたのです。その証拠に、この後の彼はどこにいますか。
さてヤコブは目をあげ、エサウが四百人を率いて来るのを見た。そこで彼は子供たちを分けてレアとラケルとふたりのつかえめとにわたし、 つかえめとその子供たちをまっ先に置き、レアとその子供たちを次に置き、ラケルとヨセフを最後に置いて、みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。創世記33章1節‐3節
そこにはその群れの先頭に立つ彼の姿があるのです。すなわち、自分で自分がと策略と共に人を押しのけて生きてきた彼の人生が変わったのです。
あなたの人生はこのヤコブの人生と重なることがありませんか。これまで戦いの人生だったという方いませんか。そして、これからも止め処もなく迫ってくる諸々の戦いに自分は臨んでいくのだ。でも、もういいかげん、ファイテング・ポーズを続けるのもしんどいという方いませんか。今まで幾度もその戦いに勝ったけれど、そこには束の間の喜びこそあれ、すぐにまた不安と恐れに支配されていたという方いませんか。
神と闘ってください。ヤコブのように。あなたの時間を神に向き合わせてください。そして、その足のもものつがいが外され、神にしがみつき、「私はあなたを去らせません。わたしを祝福してくださらなければ」と神に叫んでください。父なる神様はあなたが生まれる前から、いつもその言葉をあなたの口から聞くことを臨んでおられたのです。そして確かに神様はあなたを祝福してくださることでしょう。
お祈りしましょう。
あれは忘れられないシーンだね。
たしん
製作者の頭の中にもヤコブの出来事が確かにあったと私はふんでいる。
映画の最後にダン軍曹が義足をつけて、幸せそうな顔をして奥さんと出てくるシーンも忘れられないよ。