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マック
今日話礼拝説教。
欲読自由↓
「あなたはどこにいるのか」
2008年5月25日
於アドミラル・ベーカーズ・フィールド
メモリアルディーです。この日はその名のごとく、私達にとって忘れることなくいつまでもその心に覚えておくべきことを確認する日です。そして、特に今日はこの米国のためにその命を捧げられた方々、またもっと広げて言いますならば、私達にとって大切な人達をも私達が忘れることなく、その人達が自分にしてくれたことを思い起す日なのです。
もし、皆さんに子供がいたいとします。その子供が皆さんの元を出て行き、それから30年の年月が経ったとします。皆さんはその子のことを忘れるでしょうか。果たして自分に子供がいたのかどうか、その子が男の子だったのか、女の子だったのか、皆さんは忘れるでしょうか。
聖書の創世記の冒頭には最初の人、アダムとイブの姿が細かく描かれています。彼らは当初、神が創造された完璧な環境の中に神と共に生きていましたが、そのような中で彼らは罪を犯しました。そして、それを理由に彼らは神が彼らのために備えた園から逃れていきました。人は何か後ろめたいことをしますと、その場に居ることができずに逃げ出すものです。その日から人間は本来あるべき場所から離れて、さまよい始めました。
皆さんは親元を離れて暮らし始めた時のことを覚えていますか?自分が家を出ていたった時。あるいは自分の子供が家を出て行った時のことを覚えていますか?その時、父、母は彼らと共に過ごす事がなくなったという理由ゆえに、その子供達のことを忘れてしまうでしょうか。あぁそういえば3年前に息子が家を出ていったけど、すっかり忘れていたわ。彼の名前は何だったでしょう・・、彼の顔はどんな顔だったかしら・・・。そもそも、あの子は息子だったかしら、いや娘じゃなかったかしら、思いだせないわ」というようなことありますか。
そんなはずはない、彼、彼女の笑顔はいつも皆さんの財布の中にあり、キッチンの冷蔵庫にはられているのです。父母は子供のことを一日たりとも忘れることなどできないのです。
聖書は一貫して天地を造られた神は私達の父なのだと主張しています。そして、驚くなかれ聖書は私達人間をも造ったというのです。皆さん私達は誰しも母親の胎の中で成長して生まれてきました。そして、時に私達は「父と母によって私達は命を与えられました」と言いますが、聖書は「神があなたの父と母にあなたという命を託した」と言うのです。私にも3人の子供がいますが、私は彼らの顔をこんな風に、性格はこんな風にと設計図を書き、このように生んでくれと家内に頼んだ覚えはありません。
詩篇139篇にこんなみ言葉があります(13-17)。
「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。わたしが隠れた所で造られ、地の深いところでつづり合わされた時、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。あなたの目は、まだできあがらない私の体を見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日の、まだ一日もなかった時、その日はことごとくあなたの書に記された」
神は私達の命の始まりを見つめ、その私達を創造されたのです。そのような意味において神は私達の父なのです。そして、人の父母がそうであるように、この神はその元を離れてしまった私達人間のことを忘れることができない神なのです。
ルカによる福音書12章6節‐7節にはイエスの言葉としてこんな興味深い言葉があります。
「五羽の雀はニアサリオンで売られているではないか。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くの雀よりも、まさった者である」
皆さん、我が子が愛しくて愛しくて、その子のことを何でも知りたくて、その子の髪の毛まで数える親がいますか。昨日は何本あったのに、今日は32本足りない、どうしたんだろうなんて記録している人いますか。神様は私達の髪の毛の数まで数えられている。そんな私達をどうして父なる神が忘れることができるでしょうか。
イザヤ49章15節‐16節にはこんなみ言葉が記されています。
「女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石垣は常にわが前にある」
先ほど親がどうして子を忘れることが出来ようかと言いましたが、例外もあるのです。今日も悲しいことですが、我が子を忘れる親がいるのです。我が子を捨てる親もいるのです。でも、聖書は言います、たとい彼らがその子を忘れても、わたしはあなたを決して忘れない。どうして忘れる事ができようか。わたしは、あなたの髪の毛の数までも知り、私はあなたを私のたなごころに彫り刻んだのだから。
たなごころとは手の平のこと、そこに私はあなたを書き記したのではない、決してあなたが消えることなく、彫り刻んでいるのだ。私の国ではあなたの名前は冷蔵庫にはられているのではない、神の財布の中に色々なレシートにまざって押し込まれているのではない、私自身の手の平に刻まれているのだというのです。そのような神は一時も私達を忘れることなどできないのです。
もう一度、最初の人、アダムとイブの話に戻りましょう。彼らが園を逃れて行き、その身を木々の間に隠していた時、聖書は神が彼らに近寄られ言われた言葉を記しています。すなわちその身を隠している二人に神はこう言われたのです。
「あなたはどこにいるのか」
先週、水、木とフリーウェイ94を運転していましたら、電光掲示板に文字が光っており、このような文字が書かれていました「子供の誘拐。このような車種の車、ナンバープレートはこれこれ」。
一年に何回かこのような掲示板を見る事があります。そして、見る度に心が締めつけられ、祈ります。幼子が誰かによって車で連れ去られたというのです。この掲示板の背後で、子供を奪われた親がどんな気持ちでいるのかということを思うと心が引き裂かれます。この親達はポリスに連絡し、いかなる方法でもいいから、子供を救って欲しいと願ったに違いない。そして、この電光掲示板に光りが灯ったに違いない。
もう一度彼を、彼女をこの手で抱きしめたい。何とか助けてくれないか、この親達の気持ちを私達は全て共有するものであります。もし、我が子を救う方法があるなら、親達は昨日まで共に過ごした我が子の姿を忘れることができずに、いかなることでもするでしょう。
デンゼル・ワシントン主演の「JOHN Q」という映画を観たことがあるでしょうか。決して裕福ではありませんが、善良な市民生活を送っている家族の物語です。この夫婦には7、8歳になる一人息子がいるのですが、ある時、彼は野球の試合中に心臓発作を起して倒れてしまいます。すぐに搬送された病院で分かったことは、彼が生きるためにはすぐに心臓移植が必要だということでした。でもJHON Q(ワシントン)の経済状態ではそれを断念しなければならないところに追い込まれて・・・、その父親が最後に彼とった手段は人質と共に病院に立てこもります。そして、最後には銃を自分の口につっこみ、自分が死ぬからその心臓を取り出して我が子に移植してくれと医者にせまり、医者もその父の燃えるような子に対する愛にそれを受け入れるのです。
自分の死を息子のために決意して、衰弱している息子の枕元で、彼は父としての最後の言葉を言うのです。「まず、母さんの言うことをいつもよく聞くこと、将来、出会うだろうパートナーをプリンセスのように大切にすること、悪いことからは遠ざかること、父さんは絶対にお前を一人にはしない、いつもお前の心の中にいる・・・」。
この父の“やり方”を観る度に私は父なる神の姿とだぶってしまうのです。いいえ、本当はこの映画制作の背景には「父なる神の姿とだぶってしまうJOHN Q」がいるのです。どういうことか、それは父なる神が愛する者を救うために、忘れることができない者を救うために、手段を選ばなかったということ。我が子の命のためなら父なる神も手段を選ばなかったということです。
父なる神様は私達が本来あるべき自分の元から離れてしまっていることに心が痛んでいる。だからいつも神は私達に問いかけている「あなたはどこにいるのか」。そして、神は失われた私達を見出すために手段を選ばない。
神は無謀な計画をなさった。もし、その計画が天の議会において、諸々の御使い達と共に決められていくというようなことがあったとしたら、御使いたちは皆、猛烈に反対したに違いない。でも、神はその計画をまず最初にベツレヘムの馬小屋において実行に移された。
神はその一人子イエスをこの地上に送られた。失われた人がうようよ住むこの地球に。失われている人達を見出すために、その現場にイエスは生まれ、父なる神はどんなにあなたたちを子として愛し、あなたたちが父のもとに立ち返ることを願っているかと言う事を伝えた。
しかし、そのイエスを人は十字架につけて殺した。イザヤが記しているように、誰がそのことを想像したでしょう。この十字架はもっともっと強く、私達に「あなたはどこにいるのか」と問いかける無言の力強いメッセージとなりました。
私は今から16年前にインドを放浪していました。大学を出て、この先どうしたらいいのか悩み旅に出たのです。かつてのビートルズがかの地を訪れたように、何が生きる道なのか、どこに真理があるのかということを探し求めるために、その時にベナレスという町にたどりついたのです。ヒンズー教徒の聖地です。彼らの人生の最大の願いは、自分が死んだ時にその死体がその川に流されることです。
故にその川沿いにはいつも焚き火の煙が上がっていました。私はその側に言って見ました。ちょうどその時、布に包まれた二体の死体が焼かれていようとしていました。一体は見てすぐに高価と分かるインド綿で包まれており、その周りには20名ほどの人達が泣き叫んでいました。もう一体はシミだらけの粗末な布で、その周りには誰もいませんでした。おそらく今朝、どこかの路地裏で見つかった人なのでしょう。
丸太の上にこの二体が載せられました。火がつけられました。彼らは貧富の差に関係なく同じように形が崩れていきました。その周りには一年中、このことがなされているのでしょう、それがもう生活の一部となっている人達が、その死体が焼かれている目と鼻の先にある川で皿を洗い、自分のを歯を洗い、自分の子供の体を洗っていました。野放しとなっている牛たちは死体を縛っている紐を食べ、その燃える炎で洗濯物を乾かそうとしている人達がいました。そしてヒンズー教徒にとって、そこは聖地であり、誰もがそこで体を焼かれたいと願っているために、その火葬場の目の前には白い建物が建ち、中には死を待つ人達が暮らしているのです。そこには私達の人生に起きる生と死、悲しみと喜びの全てがありました。
その時に聖書の言葉が私の心に繰り返し思い起こされてきたのです。「なくてならないものは多くはない。いや、一つである」
私は牧師の子です。キリスト教については知っていました。でも、神を知りませんでした。神が私を決して忘れることができないお方であるということを知りませんでした。私は神を探しにインドまで行き、そこからさらにヒマラヤにまで神を探しに行こうとしていました。私は自分で神を探そうとしていたのです。
多くの人達が今日もこの試みに必死になっている。自分で神を探そうとしている。私のようにヒマラヤにこもって神を探そうとしている。白い粉を溶かして体内に注入することによって神を探している人もいるかもしれない。しかし、私達は考えもしない。あのアダムとイブ依頼、今も神が私達を捜しているということを。
あなたが眠れない夜を過ごしていた時、あなたが不安と恐怖で飛行機に乗った時、あなたが震える手を押さえながら受話器を握った時、あなたが心の鬱憤を晴らすためにビールのフタを開けた時、神様はあなたのことを忘れることがなく、語り掛けました。
「あなたはどこにいるのか?」
2008年のメモリアルディ、私達はこのことを思い起こしましょう。私達に忘れることができない人がいるように、いやそれ以上に神はあなたのことを忘れることが出来ない。だから今も私達の魂に神様は問い続けているのです。
「あなたはどこにいるのか」。
私は牧師の子です。キリスト教については知っていました。でも、神を知りませんでした
このくだりが漠然と俺のキリスト教に対する前の考え方と似てる気がする、言葉にするのは難しいけど、神っていうのは共通なんじゃないかと思う、その神の教えをどう教えるかで、キリスト教や仏教や神道や色々できたんじゃないかな????
生まれた場所や環境で何の宗教を信じてもいいけど、宗教が違うからと言ってケンカしたり戦争したりするのは本来違うんだろうね。キリスト教の神様が、キリスト教徒は救うけど、他の宗教の人は救わないっていう事もないだろうから、
自分が神様を探している時に、神様のほうこそ必死に自分を探していてくれているなんて、本当に心強い事だね!
ところで、芝生に寝転んで空を見るって幸せでしょ!!! 頑張ろうっと!
さんぼ
いつもコメントをありがとう。
ここで自分が言わんとしていることは「キリスト教について」は知っていたということ、つまりその話を聞いていて、キリスト教とはどんなものなのかということは知っていたということです。
でもそれはあくまでも「キリスト教について知識がある」ということで、「個人的に生きた関係」として神を知らなかったということだ。「結婚について」本を読んで知ったということと、「実際に結婚して夫婦で生活をすること」とは違うようにね。
不思議なもので人間っていうのは神というものを求める心を持っているね。それはいかなる国地域に住む人にも共通する。これは「虚しさ」という感情にも共通することだけど、不思議に思わないかい?動物が「神や虚無」について思索しているとは思わない。人間だけに与えられている思いだ(そのような思いは神が人を創造した時にあらかじめその心に組み込まれたものだと思う。進化の産物としてはあまりにも非合理的な思いじゃない、これらの考えって)。
そして、この求める心があるから、確かに世界中には幾千万もの神々が存在する。その中で本物はどれなのかということを考える時に、その神が人に対してどのような救いというものを差し出しているかということが大きなポイントになるのではないかと思う(やっぱりワシはどれもこれも一緒と割り切ることはできない)。寿司は寿司であって、ビビンバでもタコスでもない(でもだからといって、戦争しちゃいかんね)。
ある神はとにかく修行だという。ある神はあれこれを買い求めよという。ある神はあれを食べるなこれを着るなという。
でもバイブルに書かれている神は、人のためにキリストをこの地上に送り、そして彼が十字架にかかったという(さんぼに送ったあの十字架だ)。そして、そのことを、己がためにと受け入れていく者の罪は赦されるというんだ。
よくよくこの「罪」ということを考えてみると、わしらの周りの問題は全てこれに行き着くんだよ。戦争の問題、環境問題、社会問題、そして人ごとじゃない、本当に自分を見つめるならば、自分の抱えている問題はこの辺りにある。そして、この「罪」からの救いこそが本物だとわしは信じているよ。
長くなった、また折に触れてゆっくり書こうね。
追伸:互いの信仰が違うからといって敵対心をむき出しにしたり、戦争しちゃいけないね。でも、キリスト教徒も実際にそうしてきてしまった。人の罪はそれほどに根深いものなんだね。わしとしては、拳を振りかざすことなく、うまい寿司を「本当にうまいから!」と勧めるものでありたいね。
凡人の考えなんで、適当に聞き流しておいていいんだけど、寿司を食え、とか肉を食え、とか野菜を食えとか色々な事を言うけど、要は食べないと死んじゃうよって事でしょ、それを魚を食べたほうがいいとか、肉を食べた方がいいとか、野菜を食べた方がいいとか教える人が多い、そんなの人の勝手でさ、自分がいいと思うものを食べればいい、
そんな中でキリスト教(俺のキリスト教の知識はこのブログの中だけなんだけど)は、「きちんと食べましょう」って教えているような気がする
とにかく俺は大倉と友達で良かったという事だ、友達のいう事は素直に聞けるじゃん、なかなかこういう事を教えてくれる友達をもっている人はいないぞ。さ、午後も仕事がんばろーと
さんぼ
そうだ、「きちんと食べましょう」ということだ。嬉しいこと言ってくれるじゃやない!
世俗牧師の話を聞いてくれる友をもってアッシは幸せです。そっちは週末だな。あと一息!がんばれ!