「神を信じる人などは弱い者だけだ」。そう言われますと、ただただ「おっしゃる通りだ」としか答えることができません。しかし、言うまでもなく、私達がこのような考えに固執している限り、神を知ることはできません。
私はこのようなことを言われますと、その方の顔をまじまじと見させていただきます。なぜなら、この言葉には一つの前提があります。それは「私は強いから、強くあろうとしているからこう言っているのだ。私は神により頼むほど弱くはない」。自ら強いといわれる方とはどんな人なのか、私はとても興味があるのです。
「私は強いから、強くあろうとしているからこう言っているのだ。私は神により頼むほど弱くはない」とは、とても頼もしく、勇ましい言葉です。しかし、私はこの言葉にとても懐疑的です。それは「その人は本当に強い人なのか、強くなれるのか、そもそも強いということはどういうことなのか」ということを考えるからです。
年若い頃、「この人は強いなー」と思う人達が私の周りにいました。幼い時は悪者をバタバタと倒す漫画の中のヒーローであったり、思春期であるなら喧嘩の強い友人であったり、人の目を気にせずに自らの信じるところを突き進むことができる人であったり、その年相応に強さの変遷がありました。
しかし、今、この年になって思うことは、言うまでもなく自分も含めて、私が強いと思っていた人達は決して強い人ではなかったということであり、よくよく考えますと、私はこれまで本当に強い人間に出会ったことがないということでした。そもそも強さを誇ったり、強くあろうということは、その人の弱さのあらわれであるのではないかとすら最近、思います。
本日礼拝でお話した「礼拝メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です↓。本日の礼拝プログラムはこちらから。
マック