私達の言葉を制するもの

DSC_0068イスラエルにはゴラン高原という高原があります。そこは第三次中東戦争に勝利をしたイスラエルが現在、占領下に置いている土地で、イスラエル、シリア、レバノン、ヨルダンの国境に接しています。現在も国連が注意深くこの高原を見守っており、この土地から緊張が除かれることはありません。二週間ほど前にもこのゴラン高原にシリアからの攻撃がありイスラエル兵士四名が負傷し、イスラエル軍はすぐにシリアを空爆しています。数年前、この高原をわたしも尋ねましたが、日本やアメリカに暮らす者として驚いたのは行く先々に「地雷に注意」という看板が立っていたということです。

なぜイスラエルはこの土地を死守し、近隣諸国は隙さえあればこの土地を奪取しようとしているのかと言いますと、ゴラン高原自体は決して広い土地ではないのですが、高原というようにそこは高い土地で、そこにはイスラエル最高峰のヘルモン山があり(この山はイエス様の姿がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で変貌した山として言い伝えられています)、そのヘルモン山の雪解け水と、地中から流れる水源が低地のガリラヤ湖に流れ、降水量が極めて少ないイスラエルが生きながらえるには絶対に失ってはならない土地だからです。

ということはイスラエルに敵対する国にとってはこのイスラエルの水源であるゴラン高原を奪取することは、すなわちイスラエルを制圧するということになるのです。 同じようにとめどもなく水のように私達の口から出て来る言葉の水源は私達の心です。この水源をいかようにするのか、それが言葉を制する勘所であり、ゴラン高原奪取がイスラエルの生死に関わるように、先の御言葉に「死と生とは舌に支配される」とありましたように、私達の心を守ることは、私達の実際の生死、および私達の霊的な生死にも関わることなのです。さて、それでは私達の心はどのように制することができるのでしょうか。


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本日、礼拝でお話した「日英両語メッセージ原稿」、および「本日のおもちかえり」です。↓ マック

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剪定

prune-concave-cutter今日は教会大掃除でした。多くの方たちが来てくださり、皆で教会の内も外もきれいにすることができました。おひとりおひとりのお働きに心より感謝します!

男性陣は外回りの木々の剪定をし、そうとうの量の枝や葉をきれいさっぱりと刈りました。ぼうぼうに伸びている垣根の背後には隠れるように大きなゴミがいくつも捨てられており、それらもきれいさっぱりと処分しました。

汗をかきながらあらためて思いました。私達にも定期的な刈込みが必要だなと。ぼうぼうに伸びている我(が)の背後に隠れている必要のないゴミの数々。放っておくと悪臭がただよい、やがて鼻もマヒして何も感じなくなるからです。

聖書の言葉に照らされて、剪定が必要なところは刈り取っていただき、さっぱり、すっきりとまいりましょう。

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北より、東より、

IMG_20140328_120855_460今日はロスとシカゴからサンデイェゴを訪ねてくださるお客様がありました。午前中にはロスのローリングヒルズ・カベナント教会から寺島先生、そして金成さん。寺島先生ご家族にはおととしの夏、カナダのクリスチャン・キャンプで出会い、その後、不思議な神様のお導きにより師は上記の教会の牧師となりました。

金成さんとは今から25年前、ジョージア州でひと夏、共に働かせていただき、それ以来、消息が分からなかったのですが、15年前にカリフォルニアに来ました時に、修養会の玄関口でばったりと会い、それ以来、交流を持たせていただいております。現在、寺島先生の牧会されている教会の信徒リーダーが金成さんで、この度は教会ミニストリーについて色々な話をすべく南下してきてくださいました。

IMG_20140328_184811_259そして夕方にはシカゴからサンタバーバラを訪問されていた中村昇さんが当地を訪ねてくださいました。思えば八年前にシカゴで持たれたクリスチャン・カンファレンスにお招きいただき、その時以来、主にブログを通して奥様であられる佐知さんと交流を続けており、そこにたしんM師匠、尾尾尾りん、タイガーを巻き込んで(ごめんなさい、身内話です)、今日にいたっております。昇さんとは早速、山に登り、いい汗をかかせていただき、興味深いお話を色々とうかがわせていただきました。現在、シカゴ大学の教授として地球物理学を研究し、教えていらっしゃる昇さんには日曜日に「信仰と科学」について教会でお話をしていただくことになっており、今から楽しみにしています。

さぁ、明日は一年に一度の教会大掃除。楽しみましょー!

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心にある怒りから守られるために

17446-anger-1369478809-285-640x480『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる』箴言16章32節

誰しもがこの怒りによる苦い経験や失敗というものを経験しています。何かにあたって家の壁に穴を開けてしまったり、誰かの心を傷つけたり、その怒りを内に込めることにより心身が病んでしまったり、それがエスカレートすると傷害や破損ということにより法によって罰せられなければならないこともあります。今朝はこの私達に身近であり、かつ私達が有しうる怒りについて聖書を見てまいりましょう。

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Son of God

Son-of-God-largeデイオフ。妻と『Son of God』を観てきました。

それは聖書を忠実に表現している、とてもいい映画でした。聖書は紙面に書かれた文字ですが、その文字をこのように映像にすると色々な気づきが与えられます。イエス・キリストは色々なことを語られましたが、その言葉をどんな状況で、どんな人に向かって話されたのかということ、映像が映すものは完全なものではありませんが、少なくとも今まで自分が想像していたものにつけ加えられる新しい光景をその中にいくつも発見するわけで、そのことによりキリストの言動の意味が深まりました。

昨年、聖書全巻からメッセージを語らせていただいたからでしょうか、「イエス・キリストの生涯」を「一つの独立した出来事」として観るのではなくて、「その生涯の前後とつながりをもつ出来事」として終始、映像を観ている自分を見出し、それは自分にとって嬉しい発見となりました。

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心にあるものは奪われない

tenCommandmentsWallpaper私達が住むこの世界には無数の宗教があります。その多くの宗教は自然発生的なアニミズムから生まれています。アニミズムとは生物、無機物を問わずに全てのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方で「きつね」や「猿」のような動物から「燃える火」、「大きな岩」等、私達の周りにあるあらゆるものが崇拝の対象となります。宗教の発生を分類しますとこのアニミズムから発生している宗教というものがそのほとんどを占めています。

しかし、イスラエルの民が歩んだ道は最初からこれらのアニミズムとは異なり、とてもユニークなものでした。すなわち今から約3500年も昔、イスラエルの民が400年もの間、エジプトに奴隷となっておりました時代に、神はイスラエルの民と「契約」を結ぶことにより、彼らは神の民となったのです。ここで私達がよくよく心に留めなければならないことは、そもそも契約というのは二方においてなされるもので、彼らは自らの自由な意思と共にその契約を「熟慮」し、そして「選択」したのです。言い方を変えれば、彼らには最初からその契約を拒む自由があったということです。さらに一度、その契約を受け入れたからには双方に「責任」が生じるということは明らかなことです。

アニミズム的な多神教が全盛であった時代にこの契約という概念により、自ら考え、決断し、その契約とそれに伴う責任を彼らが選択したということは世界において前代未聞の異例な出来事でした。このことを考えますと、もうその最初のスタートからイスラエルの民は世界の諸々の民族とは全く異なるスタートを切っていました。多くの民族が月星を拝んでいる時に、彼らはそれらとは全く異なる信仰を持ち始めていたのです。そして彼らの先祖に神様が与えられた契約の中心に置かれたものは神の律法であり、律法とはすなわち神様と人との間の「言葉」による取り交わしだったのです。

このようなことを知りますと、ユダヤ人が色々な分野で功績を残しているとはよく言われることですが、彼らがなぜそのような功績を残しているのか、その理由もこの始まりを考えれば、彼らはそうなるべくしてなったのではないかと思わされます。知識とか知恵というものは全て「言葉」を媒介するものだからです。

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断腸の思い

01-Easter_Nails聖書の中には私達に対する神の「あわれみ」という言葉が何度も出てきます。旧約聖書のエレミヤ書はこの「あわれみ」を「はらわたがわななく」と表現しており(エレミヤ31章20節)、また新約聖書の原語であるギリシア語ではこの「あわれみ」の直訳を「はらわたがつき動かされること」としています。

これに近い言葉として私達は「断腸の思い」という言葉を使いますが、この「断腸」という言葉はこんな中国の故事からきているそうです。

東晋の武将・桓温が長江が流れる三峡までやってきたところ、兵士の一人が子猿を捕まえ船に乗せた。すると、その母猿が岸づたいに泣き叫びながら百里以上もついてきて決して離れようとしない。遂にこの母猿は船に飛び込んできたが、そのまま息が絶えてしまい、その腹を裂いて調べてみると、その腸がずたずたにちぎれていた。このことを聞き、桓温は非常に悲しみ、その兵士を罷免した(『世説新語』より)。

イエス様の受難週を来月にひかえ、神のあわれみ、神の痛みを想います。

『わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない』(新改訳聖書:エレミヤ31章20節)

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