読書

Lightいよいよ来る日曜日からサマータイムが終了し、陽の暮れがますます早くなります。夏の暑さも去り、朝夕と冷え込む秋となりました。秋といえば「食欲の秋」「行楽の秋」「芸術の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」等、色々なことが言われます。 

そもそも、なぜ秋は「読書の秋」なのでしょうか。この由来を調べてみると、中国の唐の時代の文人、韓愈が残した「燈火親しむべし」という言葉からきていることが分かります。秋になると暑さもおさまり涼しくなり、陽も短く夜が長くなるゆえに、秋は燈火のもと読書をするには最適な季節なのだということのようです。

聖書、第二テモテ4章13節には獄に捕らわれていたパウロが差し入れとして願っている言葉が記録されています。『あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください』

冷え込む獄の中で着る外套、そして、その所で読むべき書物。いかなる環境の中でも学ぶことをやめなかったパウロの向学心を私達はここに見ます。私達は神の霊感によってあの膨大なパウロの手紙が書かれたことを信じる者でありますが、パウロの言説には彼の日々の地道な学習もあったということを否むことはできません。

教育部のE姉が教会図書に加わった新刊図書の素敵な案内を作成してくださいました。教会には日本語で読める信仰書がたくさんあり、必要な手続きを経て、どなたも借りることができます。おそらく日本語信仰書の蔵書数はサンディエゴで、もしかしたらカリフォルニアで一番、充実しています(かな?笑)。食欲や行楽の秋もいいですが、どうぞ秋の夜長を信仰の良書とともにお過ごしください。

マック

追伸:カヌーイストの野田知佑さんは本を読みながらユラユラとアラスカのユーコンをくだり、夜は焚き火の側やテントの中でも燈火をたよりに本を読み、読み終わった書は焚き火にくべて温もり、荷物を減らしながら旅を続けたといいます。引退したら天父の大庭でそんな時をユラユラと過ごしたいものだとひそかに憧れています。

にやけてしまう光景

SHOTOKANアラブ・コミュニティーのど真ん中にある息子が通う空手道場は人の出入りがはげしく、現在、イラク人とブラジル人の先生、そして、自らが運転するタクシーで駆けつける寡黙なイラク人のおじさん、この三人の大人たちの中で息子はしごかれています。

先生方が空手に恋しているような人達だということが見ていると伝わってきます。この不思議な大人達に囲まれて汗を流している光景がなかなかよく、生徒が少ない間にガンガンとしごいてほしいと父としてはいつもにやけています。

押忍!マック 

追伸:人が多いとか、少ないということに私達の喜びが左右されることがあります。でも多かろうが、少なかろうが、やるべきことは全力でやりたいものです。100人の前でも3人の前でも聖書を語らせていただく時の気持ちは全く変わりません。

 

Stand by Me!

 

『わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます』 聖書 詩篇139篇7節-10節

『みよ、わたしは世の終りまで、いつも、あなたがたと共にいます』聖書 マタイ28章20節

マック

追伸:Grandpa Elliotは歌い続けます。

 

 

ヨエル書:聖霊のはたらきを意識していますか?

個人的な思い出となりますが、私は小学生の時、栃木県の矢板という町に住んでいました。小さな町で、かつて古い町のお寺であった建物をそのまま使っていた教会の側には川が流れ、フナやウグイが群れて泳ぎ、数分歩けば蛙やヤゴがいくらでもいる田園が広がっていました。

そして、その田園には多くのイナゴがいました。田んぼのあぜ道を歩くと何十匹ものイナゴが人の気配に気がつき、いっせいに飛び立つのです。小学生の頃、そのイナゴを佃煮にするために、よく捕りに行きました。竹筒をさしこんだ布袋を持って、そのイナゴを手で捕まえるのです。

そして、その袋を教会に来ていましたあるおばあちゃんに渡すと、彼女は家に持ち帰り、そのイナゴでいっぱいになった布袋をそのまま熱湯に入れて茹で、それを甘辛く佃煮にしました。脚にはトゲがあるので、彼女はその足を取り除き、それを売りに出していました。おそらく今の子供達はイナゴを捕まえることや、それを食べていたと言っても気持ち悪いと敬遠されるかもしれませんが、あの経験は私にとって貴重なものでした。

さてさて、イナゴと今日のメッセージは何の関係があるのでしょうか。 



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マック

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言葉

WORDS田中真紀子さんが文部科学大臣となった時に子供達への教育の一つの目標として「他人と自分は違うということの大事さに若いうちからきづかせること」に取り組みたいというようなことを言っていました。

この言葉を聞いて「言われてみれば、確かに日本はそうだった」と忘れかけていたことを思い出しました。当地に住んでいますと「互いに違う」ということはあえて説明する必要もない前提で、その事実に基づいて全てのことが始まります。隣にいる人も目の前にいる人も、その肌の色も、言語も、文化も信仰も異なっているということから始まりますから、その違いをどうにか克服していなければこの国は成り立ちません。そのためにどうしても必要なことが私達が互いに交し合う「言葉」なのです。

最近、NHKニュースがアメリカの学校でもたれているディベート大会の取材を放映していました。一つのテーマに対して、学生達がいかに論理的に話し合いをし、相手を納得させるのかということを競う大会です。このような光景はこちらでは珍しいことではなく、いかに自分の考えている事を相手に伝えるかということは教育の根本にあり、それがこの国が存続していくための生命線です。最近、第二ラウンドが終わったオバマ大統領とロムニーさんとのディベートはまさしく、グラブをはめない言葉を応酬し合う格闘技のようなものでした。きっとお二人はあの後、そうとうに肉体的な疲労を感じたのではないかと思います(そのうち、このディベートもESPNあたりが放映するかも?笑)。

手を出さず、刺さず、撃たず、どれだけ言葉で物事を解決できるのか、それがこの国の最重要な課題です。

マック

追伸:この国が裁判の国で、言葉を駆使する弁護士が多いのもうなづけます。 

 

「遊びじゃないなら何なのよ」

荒野で一晩を過ごし、我々一行は公園内のとある場所に向かいました。そこには今から1000年ほど前のNative Americanが書き残した壁画があるということを最近、知ったのです。

しかしながら、これが灼熱の道程のはじまり。一般道から荒野に入り込んだ道は舗装道路どころの話ではなく、やがてそれは大雨の後の濁流が形作ったのでしょう、右左に傾斜した道となり、さらに進むと道は砂でうまり、こんなところにジープではなく(ジープなど持っていませんが)、ミニバンで来てしまっているわが身の愚かさを悔やみつつ、さりとて引き返すことも悔しく、何度も迷いつつ、でも、ひたすら前進しました(結局、始めから終りまで人っ子ひとり、誰にも会うことはありませんでした)。

Anza Borego Camp 096

 

 

 

 

 

 

「こういうところで車がとまってしまうと、やがて陽が暮れてコヨーテの群れに囲まれて弄ばれて衰弱していくんだろうな」とか「このような周囲数十キロ人がいない場所で武装集団に襲撃された場合(なんだ、そりゃ)、どのように応戦したらいいのだろうか」とニガティブな思いばかりがリアルに頭に浮かびます。そんなことを考えながら、砂の中にタイヤがとられないように必死の形相でハンドルを握っているのに、後部座席では子供達が「わぁーインディアナ・ジョーンズだぁ~!ヒャッホー」と盛り上がり、その騒ぎはエスカレートし、真剣な私にはやかましく、口から出た言葉は「こらぁ~、こっちは遊びに来ているわけじゃないんだ!(怒)」と声をあげると、助手席の妻が「遊びじゃないんなら、なんでこんな所まで来ているのよ?」と冷静な一言。その一言でハッと我にかえり、あやうく荒野の只中で崩壊しそうになった家庭を守ることができました。

Anza Borego Camp 106

 

 

 

 

 

 

Anza Borego Camp 108

 

 

 

 

 

 

どうやらこうやら脱水症状および熱中症危険信号点滅のまま目的地にたどり着き、かの壁画に対面し、されど、もはや悠久の時の流れに静かに思いを寄せる余力はなく、壁画の前でヘラヘラと笑い合い、無事に生還、そう、まさしく生きて還ることができました!

Anza Borego Camp 118

 

 

 

 

 

 

Anza Borego Camp 119

 

 

 

 

 

 

もしかしたらこの壁画は写真下段のような、おちゃらけた子供の落書きだったのかもしれません(笑)。そう思うと「こんな所まで子供の落書きを見に来たのか」と体中から力がぬけていきました。完。

Anza Borego Camp 132

 

 

 

 

 

 

マック

教訓:荒野は厳しい。ほんとうに厳しい。聖書の読み方がこの体験で変わると思います。

荒野の泉

聖書の世界は主に現在のイスラエル周辺を中心とした乾燥した土地の話であり、それゆえに「荒野」とか「泉」という言葉がよく出てきます。しかしながら私達は普段、荒野に住んでいるわけではなく、それなりに整備された街に住んでおり、荒野での生活というものはどんなものなのか、荒野に泉があるということにはどんな意味があるのかを本当に知ることはできないと思います。

このようなことは紙面で想像するよりも、実際に荒野に行き、その灼熱の日差しを全身で浴び、埃を全身にかぶり、泉に全身、浸るのが一番、ということで、去る日曜日の夕刻から、メキシコ国境をかすり、国境警備隊の尋問を受けつつ、アンザ・ボレゴ砂漠州立公園内にテントをはってきました。その名も「Agua Caliente」、スペイン語で「熱い水」を意味する荒野にひっそりと湧く温泉地帯。

Anza Borego Camp 011

 

 

 

 

 

 

なべ底にいるような静寂に包まれた夜は、誰も通らない道にしばし仰向けになり、まさしく落ちてくるのではなかろうかと思うほどの満点の星空を眺め、「家の中でネットにしがみついている現代人と毎夜、こんな空を眺めて眠りについた昔の人との違いについて」「昔の人はこの星空をどのように理解していたのか」等々、ああでもない、こうでもないと各々、思うことを語り合うことができました。

Anza Borego Camp 056

 

 

 

 

 

 

夜中にはテントのすぐ側で一匹のコヨーテが遠吠えをすると、他の数匹が続けざまに遠吠えをはじめ、まさしくこれぞ荒野、自分達は彼らのテリトリーに一晩、場所を借りているのだなと実感しました。

マック

追伸:温泉というと渓流のせせらぎや森林の香りを思い出しますが、見渡すかぎりの荒野に湧いた温泉はまさしく心身ともに潤してくれる天からの賜物でした。

Anza Borego Camp 089

 

ホセア:不貞の妻を迎え入れるということ

不貞の女を妻として迎え入れるようにと神から示された預言者ホセア。その言葉どおり、彼は彼女、ゴメルを妻とします。しかし、やがてこのゴメルは夫ホセアと子供達を残して家を出、娼婦となります。神はホセアに代価を払って彼女を買い戻しにいくように語られます・・・。

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